目次
中学の卒業式で見た「欠席」という現実
卒業式は、ただ学年を終えるための行事ではない。
そこには「ここまで来たね」「次へ進むんだね」という、社会からの静かな承認がある。
だからこそ、その場に立てない子が珍しくなくなった今の現実を、私は書き残しておきたいと思った。
先日、息子の中学卒業式だった。
朝から私は、自分のスーツが着られないだの、20年前の礼服を引っ張り出したら虫食いだらけだっただの、相変わらず自分らしい騒ぎを起こしていたのだが、式そのものはとても穏やかで、きちんとした、いい卒業式だった。
体育館には独特の匂いがある。
少し冷たい床の感じ。
並べられた椅子。
張り詰めた空気。
保護者のよそゆきの服。
子どもたちの、まだ少し不安定な立ち方。
中学の卒業式というのは不思議な場所だと思う。
まだ子どもなのに、子どもだけではない。
高校生ほど完成されてもいない。
小学生のように無垢でもない。
まさに青春の一番始まり、その入口にいる存在たちが集まっている。
その場には、独特の眩しさがある。
だが今日、私は別のことにも驚いた。
卒業証書授与の場面で、1クラスに3人、4人と欠席者がいたのである。
最初は、
「インフルエンザでも流行っているのかな」
くらいに思った。
だがあとで息子に聞くと、返ってきたのは
「いや、その人たちは大体、不登校の子たち」
という答えだった。
正直、かなり驚いた。
私の頃の「不登校」と、今の「不登校」は景色が違う
もちろん、昔にも不登校の子はいた。
私が学生だった頃にもいたし、ゼロだったわけではない。
ただ、感覚としてはまったく違う。
私の卒業した中学では、学校全体で2〜3人いたかどうか、という印象だった。
少なくとも、卒業式で「各クラスに何人も来ていない」という光景はなかったように思う。
ところが今は、1クラスに2人、3人、あるいはそれ以上いてもおかしくない。
それがもう「特別なこと」ではなくなりつつある。
この変化を、どう受け止めればいいのだろう。
単純に
「今の子は弱くなった」
で終わらせるのは、たぶん違う。
一方で、
「多様性の時代だから、それでいい」
と軽く言い切るのも、私には少し乱暴に思える。
なぜなら、卒業式というのは、単なるイベントではないからだ。
卒業式は、青春の始まりを社会が承認する儀式でもある
中学の卒業式というのは、学年が終わるだけの場ではない。
そこには
「ここまで来たね」
「次へ進むんだね」
という、社会からの静かな承認がある。
小学校の卒業とは少し違う。
中学の卒業には、もう少し生々しい未来がある。
高校進学。受験。進路。人間関係。自己意識。
世界が少しずつ具体的になり、本人の輪郭も少しずつ固まっていく。
その一歩手前で行われる卒業式は、いわば
青春の一番始まりに立つための儀式
のようなものだと思う。
だからこそ、そこに来られない子が少なくないという現実に、私は何とも言えない気持ちになった。
責めたいわけではない。
馬鹿にしたいわけでもない。
「甘えだ」と言いたいのでもない。
ただ、あまりにも象徴的だったのだ。
本来なら、その場にいるはずの年齢。
その場が似合うはずの季節。
その場から未来へ接続していくはずの瞬間。
そこに、最初から空席がある。
この光景は、やはり少し重い。
コロナ禍・教育の変化・社会の歪みは無関係ではない
理由はひとつではないのだろうと思う。
コロナ禍は確実に影を落としているはずだ。
人との距離感。
学校という空間への感覚。
日常が急に切り替わることへの不安。
「行かなくても成立してしまった時間」の記憶。
それらは、子どもたちの身体や心に、かなり深く残っただろう。
一方で、教育や社会の側も変わっている。
昔なら、多少しんどくても
「まあ行くしかない」
で押し流されていた子が、今は途中で離脱しやすくなった面もあるのかもしれない。
それを私は一概に悪いとは思わない。
無理して壊れるくらいなら、一度離れた方がいいこともある。
本当に危ない場所から逃げられる社会であること自体は、むしろ大事だ。
だが問題は、その先だ。
逃げたあと、休んだあと、立ち止まったあとに、
その子が再びどこかへつながれるのか。
学びへ、社会へ、人間関係へ、自分の未来へ。
そこへ戻る導線があるのか。
ここが細いままだと、ただ
「傷つく前に抜けられるようになった」
だけで終わってしまう。
それでは、やはり苦しい。
大人ですら潰れる世界で、子どもだけ強くあれとは言えない
少し話は広がるが、私は最近よく思う。
今の世界は、大人ですら普通に潰れる。
仕事の速度は上がった。
求められる処理量も増えた。
技術は進んだ。
便利なものも増えた。
だが、そのぶん人間が受け取れる恩恵がきれいに増えたかというと、まるでそんな感じはしない。
本来なら、技術が進めば、そのぶん人は少し余白を得るはずだった。
もっと創造に時間を使えたはずだった。
もっと生活は落ち着いたはずだった。
もっと金銭的にも精神的にも、呼吸がしやすくなるはずだった。
だが現実には、速くなったぶんだけ、さらに速く働かされる。
便利になったぶんだけ、さらに多く処理することを求められる。
空いたはずの時間には、新しい負担が流し込まれる。
その結果、大人たちもいつもどこか疲れている。
不機嫌な人が増える。
余裕がなくなる。
お金も貯まりにくい。
美しいものを作るための時間も気力も残りにくい。
そんな歪みの多い世界で、子どもだけに
「ちゃんと青春しろ」
「ちゃんと学校へ行け」
「ちゃんと未来へ進め」
と言うのは、やはり簡単ではない。
中学の卒業式で空席を見た時、私はそこまで考えてしまった。
あの席に座るはずだった子たちは、単に学校が苦手なだけなのか。
それとも、この世界の歪みを、少し早く身体で受け取ってしまった子たちなのか。
不登校の子どもに必要なのは、欠席後の再接続だと思う
私は、学校へ来られなかった子たちを美化したいわけではない。
不登校が素晴らしいとも思わない。
学校が絶対とも思わない。
ただ、強く思うのはひとつだけだ。
欠席が、そのまま人生の欠落になってほしくない。
卒業式に出られなかった。
教室にうまく入れなかった。
毎日通うことができなかった。
それ自体は、人生全体から見れば一場面でしかない。
本来はそうであっていい。
むしろ大事なのは、そのあとだ。
遅れてもいい。
遠回りでもいい。
形が違ってもいい。
どこかでまた、自分が社会とつながり直せること。
自分はここにいていいのだと感じられる場所があること。
学び直しでも、仕事でも、人間関係でも、何でもいい。
「まだ終わっていない」と思える通路が残されていること。
社会は、そこをもっと厚くしていくべきだと思う。
学校に行けたかどうかだけでなく、
その後どう再起できるか。
そこにこそ、本当の意味での成熟がいる。
欠席が人生の欠落にならない社会へ
卒業式は、めでたい日だ。
実際、今日もそうだった。
息子の成長は嬉しかったし、ここまで来たことにしみじみした。
だが同時に、私は空席も見た。
体育館の中の、あの静かな不在。
名前はあるのに、その場にはいない現実。
青春の始まりの場面に、参加できない子が珍しくなくなった世界。
この感覚は、たぶん今の時代をよく表している。
表面だけを見れば、卒業式は変わらず進んでいく。
名前が呼ばれ、拍手があり、写真が撮られ、春が来る。
だがその裏で、来られない子たちも確かに増えている。
それは単なる統計の話ではなく、
私たちの社会そのものの話なのだと思う。
だから、今日感じたことを残しておきたかった。
うまくまとめきれない部分もある。
結論がきれいに出る話でもない。
だが、それでも書いておく価値はあると思った。
中学の卒業式という、青春の入口のような場所で、
すでにその入口に立てない子が何人もいる。
この世界を、私たちはもう少し真面目に考えた方がいい。
責めるためではなく、救うために。
嘆くだけではなく、つなぎ直すために。
そして願うなら、欠席した子たちにもまた別の形で、
ちゃんと春が来てほしいと思う。

