
三年前、突然に妻がこの世を去った。交通事故での、あっけない別れだった。今でも、彼女ほど愛した存在はなかったと、自分の半分が失われてしまった様な気持ちでいる。彼女と出逢った時以来、他の女性には一切の興味が湧かなかったし、何より二人でいる時間は幸福に満ちていた。
彼女の死から一年は泣いて暮らした。彼女の面影が浮かぶ度に、彼女の痕跡を見つける度に、涙が溢れて止まらなかった。彼女のいない世界が、こんなにも味気ないとは……。
しかし、人間とは適応するようにできているものだ。最近では悲しみに暮れることなく、ただ毎日を生きていく事に必死になっていた。
幸か不幸か。俺の職場には素敵な女性が多い。同僚の奴らはようやく俺が立ち直ったと見るや、よく合コンだの飲み会だのとセッティングしてくれるが、あまり乗り気にはなれなかったし、どうとなる事もなかった。職場恋愛に思いはないし、俺が妻を失った事を知っている職場の女性と、気軽に付き合いができるかと言う点が大きい。合コンに関しても、何だか言葉巧みに誘われて参加した所で、やっぱり積極的な気持ちは出てこない。
興味が完全にない訳では無いが、妻以上の存在は現れないと思ってしまうし、探そうと言う気もなかった。ただ、最近は彼女と交わした約束を思い出す事が多くなっていた。
結婚する直前だっただろうか? 彼女は突然に妙な事を俺に尋ねた。
「ねえ、私が死んだらどうする?」
「どうするって……。いきなり変な事を言うなよ」
「あ、ごめんね。かまってちゃんとかじゃなくて。もし、私が若くして死んで、あなたが生き残ったとしたら、その先、どうするのかなって思っちゃって」
その時の彼女の表情は、思い詰めたものではなく、まるで映画館の前で『どれを観る?』って聞いてくるようなライトな雰囲気だった。普段からどこか天然と言うか、ぽやっとしていて急に斜め上からの発言があったり、よく変な冗談を言ってケラケラと笑っていた。
だからその時も俺はそれを冗談だと思っていた。しかし、今思えば彼女はその時、すでに先の事を予感していたのかもしれない。
「再婚はする?」
「他の女と俺が幸せになったら、嫌じゃないのか?」
「う~ん、嫌だけど、あなたにとって大事な人になるんだったら良いかなぁ」
「大事な人ねぇ……。でも、もしそんな事になって、大事な女性が現れたとしてさ、君が嫌かどうかたしかめられないじゃないか。俺はあの世でだって、君が嫌な事はしたくないな。実際に良い相手かどうかは一緒になってみないと分からない事だし」
そう答えると、彼女はう~んと頭をひねって、何かを思いついたようだ。
「そうだ。霊になると、色んな事が認識できるようになるって言うじゃない? 私があなたに良い人かどうか教えてあげれば良いんだよ!」
「教えるって、こいつはイイ女だぜってサインでも出すのか?」
「う~ん、どうすれば伝わりやすいかなぁ」
妙な会話が続いて、何となく他の事に気を取られた俺は、適当に返す事にした。
「そりゃあ、その相手のおでこの辺りに、俺だけに見えるように、サイン出されたら分かりやすいよな」
「あ、それ良い。よし、そうするね。はい、約束」
その日だけの会話だったなら、そんなに気にはしなかっただろう。しかし、この会話は彼女が事故に遭う前日にも繰り返された。その時は妻が以前の会話を忘れて、また同じ話を始めたのかと思っていたが、実際にこうなってしまうと、まるで遺言の様に思えてならなかった……。
彼女の死後、この時の会話は何度となく、俺の頭の中で思い返されて来た。
「おい、今日は新しい女の子が配属されて来るらしいぜ!」
同僚の一人が、出勤早々の俺の元へと駆け寄った。ウキウキした様子の彼に、お前は学生かと心の中で思いつつ、そんな風に楽しめる彼をほんの少し羨ましいとすら思えた。
「なんだよ、興味ないのかよ? すっげぇ可愛かったらどうするよ?」
「そうねぇ」
俺の生返事を聞いて、奴も諦めたようだ。今度は他の若い同僚へと駆け寄り、同じ話題を振っているようだ。若い同僚は奴に同調したのか、野太い歓声を上げていた。出会いや愛を求めているのとは違うのは分かっている。ある種ミーハーな反応なんだと言う事くらい。
ただ、妻と出逢った時から失われた部分でもある。いや、正しくは失われたのではなく、満たされてしまったのだと言う事も。
「みんな、ちょっと良いか。今日、ここの部署に配属が決まった者を紹介する。ほら君、自己紹介を」
部長の声は聞こえてはいたが、ちょうどその時に電話対応をしていて、そちらの方に目を向けられなかった。
「ええっと、みなさん初めまして。今日付けでこちらに……」
その声は若くはなかった。朝イチで同僚から『女の子・可愛い子だったらどうする』とか聞かれたせいか、俺は勝手に若い子だと先入観を持っていたのかもしれない。ちょうど電話対応を終えて、朝礼の輪に戻ろうとした時、声とイメージのギャップで思わず顔を上げてそちらを見ていた。
その声の主は、妻と同じくらいの年齢の女性だった。背が高くて、スーツをしっかりと着こなし、仕事が出来そうな印象を受けるが、キツそうにも見えない。正直、なかなかの美人だと思った。
「なんだよ、流れ者の御局様かよ」
朝騒いでいた同僚がそっとそんな不謹慎な事を宣う。
「なにも出来ない新人の子に、一から教えるよりは良いだろ」
「けっ、夢のない奴め」
別に若くて可愛い子に夢がないわけでもないが、その配属されて来た女性には好感が持てたし、嫌な印象はなかった。
※
「う~ん、どうすれば伝わりやすいかなぁ」
「そりゃあ、その相手のおでこの辺りに、俺だけに見えるように、サイン出されたら分かりやすいよな」
「あ、それ良い。よし、そうするね。はい、約束」
ある日、妻との約束が夢の中でもう一度繰り返された。
なぜこんな夢を見たのだろう? いつもなら突飛な夢ばかりで、起きた頃には内容などほとんど覚えていないのに。目を覚ました時、ついさっきまでその会話をしていたような、やけにリアルな感覚だった。
その日の午前中、部長に呼ばれた。
「この前、君に話した事業計画あるだろう。あれを彼女と組んでくれ」
そう言って指さす先のデスクには、数週間前に配属されてきた女性の姿がある。今の所、ほとんど関わりがないが、仕事が出来ると言うのは聞いている。ただ、部長の言う事業計画は規模が大きいし、入念な調整が求められる内容だ。配属されて間もない彼女と組むのは、少し不安が募る。
「えっ? 彼女とですか?」
「そうだ。彼女は以前にこれと似たような仕事を完成させた事があるんだよ。君がメインで、彼女の経験をサポートとして進められればと思ってな。それに彼女の今後の判断材料にもなる」
そう言う事なら良いのかな? もともと俺が一人でやるはずだったし、サポートと言うくらいでならありだと思った。
承諾して、彼女を含めて三人でミーティングをする事となった。
※
そうして始まった彼女との新規事業は、想像以上に大変なものだと、準備段階でその認識を改めさせられた。連日、情報の精査とそのまとめに追われ、終電まで残業を重ねる日々が待っていた。ひとつ救われた点と言えば、思っていたよりも遥かにバディとなった彼女の能力が高く、データの集計方法のアイデアだとか、過去に培った経験値が大いに助けになっていた。
ただ、それでも仕事量や求められる精度が高く、疲労は溜まる一方だ。
その日も深夜まで職場に残り、データの処理に追われていたが、もう少しで今日は帰れると言う所でまさかのPCがクラッシュ。再起動してモニターに浮かび上がったのは、ここ数日のデータが消えた状態だった。
「クソッ! こんなの割に合わねえよ、こんな仕事!」
溜め込んでいた物が堰を切った様に、思わず声に出していた。となりで作業をしていたバディにも聞こえてしまっただろう。その情けなさと怒りとで頭がいっぱいになり、背もたれに大きく反り返ると、両腕を眼の前で組んだ。
何となくこちらのモニターを見ているのを感じたが、彼女はそっと席を立って部屋を出て行ってしまった。
(感情的になった俺も悪いけどさぁ、出ていかなくても良いだろうに……)
しばらくそうしていたが、全てがバカバカしくなり、上着を羽織ろうと席を立った時、彼女が隣の席に戻ってきた。その両手にはそれぞれコーヒーの入った湯気と香りの立つカップがあった。
「大詰めって時に落ちるんですよねPCって。でも大丈夫、このプロジェクトの最初にデータ管理のシステム選定任せてくれたでしょ、データならクラウドに連携してあるから、最悪ログたどって修復も出来ると思うから、ね? ちょっと休憩しましょう」
そう言って彼女はカップを一つ俺のデスクに置き、自分のPCで自動保存されたデータの履歴を見せてくれた。
「うわ、超シゴデキが過ぎるじゃないですかぁ……。俺、数日分の仕事が飛んだと思って、感情的になっちゃった。ごめんなさい、子供っぽかったですよね」
「全然♪ 私はこんなに大きな仕事を与えられて嬉しいし、あなたも仕事がとても出来る人だから、最近毎日が楽しいんですよ。……流石に洗濯物が溜まってきたり、生活は荒れてますけどw」
「ぷふっ、そうなりますよねぇ~。最近、家帰っても風呂入って寝るだけだしなぁ」
それがきっかけとなって、そのまま彼女と普段は話さないプライベートな会話をしたりして、少し打ち解けたような気がした。バックアップの件に関しても、感謝しか無い。その時は最早恨みがましくさえ思っていた部長の人選に感謝すらしていたくらい。
その日が山場だったのだろう。その後は順調に事が運び、バディとの相性も良く、仕事の効率はすこぶる上昇した。
※
「ふたりともご苦労さま! 本当に良くやってくれたよ。これは私も胸を張って上層部を動かせる」
勢いがついたまま、気がつけば予定よりずいぶんと早くにプロジェクトは完成していた。最初の計画よりもクオリティが高く、自分でも自信を持って提出できた。上機嫌になった部長は、寸志と称してポケットマネーから打ち上げ代を渡してくれた。自分は参加しないから二人で気軽に楽しんで来いという。こういう人心掌握、それが部長の部長たる所以か。
その夜、二人で近くの人気店に予約を取り、ささやかな打ち上げを開いた。思えば彼女とこうして外で酒を飲むどころか、まともに外食した事がなかった。それはもう忙しかったし。
そこで初めて彼女の素顔を見つめた。仕事中はいつもとなりにいたが、思えばほとんどまともに正面から顔を見た事はなかったかもしれない。目が大きくて、鼻筋が通ったかなりな美人だと、遅ればせながら改めて認識する。思わず見とれてしまった俺に、胸から喉元まで込み上げるような感情が湧き起こるのを感じていた。
それは妻と初めて出逢った時の様な、熱い胸の高鳴りだった。
「うん? どうしたの? 私、口元に何かついてたりする?」
もう何年も失っていた感情に、何よりも自分自身が驚いていた。そうして不思議そうな顔をする彼女の表情に、俺はしどろもどろで口を滑らせてしまった。
「あ、あ、いや、綺麗だなぁって思って。ふぇ! あ、いやその……」
※
その日から彼女との交際が始まった。自分でも驚いてはいる。もう自分には起こらないと思っていた感情が、突然に流れ出し、その相手もまたそれを受け入れてくれているようだったから。無い無いと思っていた事が、突然に動き出すもんだなぁと、自分でも不思議だった。
そして交際と言っても肉体関係があるとかはなく、仕事帰りに食事をしたり、週末は遊びに出かけたり映画を観に行ったり。ごく普通のデートを重ねているだけ。ただプラトニックではあっても、手を繋いだり身を寄せ合うという距離感はある。それでも一線を超えていない。
彼女といて幸福感は感じていても、その先に進むのに躊躇があった。妻の面影、妻との約束が頭に浮かび、どうしても一歩が踏み出せない。そして、彼女も俺の事情を知ってか、その距離感に止めようとしてくれているのが分かっていた。
「なあ、あの女性はどうかね? 君といた頃と同じ様な幸せを感じるんだよ」
家でひとり、いつもより濃いめの水割りを片手に、妻が座っていた椅子に向かって話しかけてみた。もちろん返事はない。
「君とした約束、憶えているか? 彼女じゃあダメかな」
明日、彼女と週末の夜を過ごす。そして俺はそこで答えを出そうと思っていた。いつまでも中途半端な俺の気持ちで彼女を縛っていても、彼女を傷つけてしまうかもしれない。手を引くべきか、一歩を踏み出すべきか。彼女にとって誠実な答えを。
「明日、サインを頼むよ。君が認めるなら、俺も決めるからさ……」
その声が届いたのか、その夜、またあの夢を見た───
※
週末のその日、俺の仕事が伸びてしまい、先に彼女をとあるバーで待ってもらっていた。そのバーは妻にプロポーズをした思い出の場所だった。彼女にそれを教えてはいない。
これは俺のわがままというか、ゲン担ぎというか、今彼女の気持ちに誠意を見せるには、俺の恋路に関わる全てを持って臨みたかった。
しばらく遅れて、バーのチョコレートドアの前に立ち、深呼吸を繰り返していた。妻と交わしたあの約束は、本当にただの思いつきの冗談だったのかもしれない。人の死後がどうなるかなんて、俺には全くわからない。ただ、妻が約束を果たさなかったとしても、その思い出や感情が、俺の後押しをしてくれている気がしてならなかった。
店のネオンサインは、あの頃と変わらずに、ジジジッと音を立ててわずかに点滅している。都心にしては静かな場所、その静けさを押し割るようにして、店のドアを開いた。
店内からあふれる温かな空気と、人々の談笑の心地よいノイズ。静かに流れているジャズの名曲。
───胸が高鳴る
本当に自分に判断が下せるのだろうか? 未だに迷いもある。そして妻との約束の答え合わせ、俺自信の思い出とのけじめをつける事だとも言える。
狭くて急な階段を降りて、店内を歩くと、流れているのは妻にプロポーズした時に流れていた曲だと気がついた。
「あ、こっちだよ~。お疲れ様、大変だったね」
奥のテーブル席から彼女の声が聞こえた。一歩一歩、踏みしめるように近づく。唇は緊張で脂っぽく感じられ、普段歩く時に腕をどうしていたかが思い出せない。
ちょうど彼女と俺との間にある観葉植物に隠れて、彼女の顔がよく見えない。俺は祈るように床を見つめて歩き、やがてゆっくりと顔を上げた───
「あなたの事を愛しています」
※
明日、俺達は結婚する。彼女は両親と最後の夜を過ごしたいと、実家に帰っている。俺はいつかの様に、妻の座っていた椅子に話しかけていた。
「ありがとうな。約束、守ってくれて。君の後押しがなければ、俺はずっと進めなかったかもしれない」
やはり返事はない。でも、きっと彼女には俺の声が届いているだろう。
「でもな、いくらサイン出すって言ってもさ、あれはないだろ?
彼女のおでこから手だけ出して、OKとサムズアップ繰り返すとかさ……。ムードぶち壊しだったぞ」
こうして俺は再婚を果たした。以前より幸せに満ちている。今の妻と、天国の妻に見守られているのだから。