
都内でも有数な巨大ターミナル駅。複数の私鉄や、高速バスへの連結が集中し、常に人々で溢れかえる交通の拠点。
早朝にはそれぞれの戦場に向かう、または夜の仕事を終えた人々、それぞれの目的が激しく交錯する場所である。だれもが自分の道に向い、乱雑な中にも整然とした、人の流れが形成されている。
その流れを乱す不思議な男がいた。
身に着けたスーツは、きっちりとプレスがされ、シワひとつない。その黒いスーツは、男の身体にしっかりとラインを作り出し、洗練された素材である事も見て取れた。髪はしっかりと撫でつけられ、凛とした力強さがある。
しかし、顔は青白く、疲労の色が濃厚で、眼の周りはやや落ち窪んでいた。猫背のせいか身体が小さく見え、フラフラと歩く姿は、スーツの見事さと相まって、見る者に違和感を植え付ける。
男の年齢は全くと言っていいほど掴めない。三十代にも見えるが、四十代のようでもあり、時折見せる何かを悟ったような顔は五十代にも見え、疲れ切った不安そうな振る舞いは六十代にも見えた。
「……何か夢はありませんか? 叶えたいことは?」
雑踏の中、口元に耳を近づけなければ聞き取れないような、か細く小さな声で人々に訴えかけている。誰もが歩みを早め、去ってゆく。男の周りには、関わるまいとする人々の迂回ルートで、そこだけ空間ができていた。この駅を利用する者たちにとって、その1日の朝の時間は貴重であり、メリットもなければ理解にも及ばない者の訴えなど邪魔でしか無い。
それでも男は、足を引きずる様な独特でフラフラとした足取りで、人々の波間に割って入ろうとしていた。
「……何か夢はありませんか? 叶えたいことは?」
まるで男が牧羊犬であるかのように、ただただ人々の流れは避けて通って行った。
これは毎朝この駅で繰り返されている風景であった。特に犯罪に繋がる行為があるわけでもなく、実際に迷惑行為となる行動もないため、駅が対応に出ることも構内の交番が動くこともなかった。
また、夜にこの駅を利用する者が、彼を目撃することもなかった。朝だけのことなのだろうか? しかし、それを調べようとする者も無い。目的があってここを通る人々にとって、どうでも良いことなのだから。
「……何か夢はありませんか? 叶えたいことは?」
そう問われて足を止めるのは、比較的に混雑の少ない休日に、遊びに訪れる地方の人間ぐらいのものである。しかし、好奇心に足を止める彼らも、彼の表情や風貌を目にすると、踵を返して足早に去ってしまう。
いつから彼がこの駅にいるのかは、誰も知らない。もしかしたら長年こうしているのかもしれないし、つい最近始まったことかもしれない。
そうして誰もが彼の問いかけには答えず、また忙しい時間にわざわざ観察する者もおらず、夜には姿が見えない。朝に気になったとして、1日を慌ただしく終え、帰りの電車に詰め込まれて揺られれば、そんなことなどすっかり忘れてしまう。
※
その朝も男はフラフラと同じ問いかけをして歩いていた。そのそばを独りの中年男性が通りかかる。
彼は昨日、会社で非常に腹立たしいことがあり、今朝になってもすこぶる機嫌が悪かった。その上、自宅に定期券を忘れ、混雑する券売機に並び、少ない小遣いの中から切符を購入せざるを得ない。まあ、最低な気分のスタートだった。
「……何か夢はありませんか? 叶えたいことは?」
普段ならあらかじめ余裕を持って避けるコースを取っていたものの、その労力ですら腹立たしく、むしろ八つ当たり相手が前に来るのを待っていたような腹積もりもあった。
しかし、いざ男に眼の前で立たれ、その目を真正面から睨みつけたにも関わらず、見つめ返されて彼は怯んだ。どろりと光のない、こちらの目を除き返しているようで、遥か遠くを見通しているような焦点の合わない男の目。それは何か別の生き物が、単に人の形をしているだけで、一切交流の叶わない存在と対峙しているような印象だった。
「……何か夢はありませんか? 叶えたいことは?」
「お前が邪魔なんだ! そこをどけッ!!」
逃げたいとも思った。しかし、そこは怒りに任せ、一歩を踏み出して怒鳴り返す。一瞬、人々がその大声に注意を寄せ、雑踏が薄まった。
男はどう反応するのか、好奇心もあれば『関わりたくない』とそそくさ距離を作る者、自分が怒鳴られたかのように不安に苛まれる者。多くは気づきもしないで通り過ぎるし、気づいた者も一瞬置いて、また歩き出す。大声を出した当の本人は、わずかな恐怖心と『やるならやってやる』という思い、そして後悔などとあらゆる感情に苛まれていた。
だが、相手の男は頬の肉にしわを刻み、ニヤリと微笑んでいた。いつもの猫背をまっすぐにして、ただそこに立っているだけだと言うのに、急に大きくなったような違和感が植え付けられる。
「……な、なんだよ?」
思わず拳を握りながらも、恐怖心から目を逸らした時、男はスッと移動して脇に退いた。彼は数秒の間、脇に逸れて立つ男に目を奪われたが、思い直したように歩き出した。通りすがりに男の表情をちらりと見て、足早に去る。
(なんて不気味な表情をするんだ……? 何なんだよあいつは)
会社へ向かう歩道にまで進み、ふと振り返ってみると、男はいつものように例の問いかけをしながらフラフラと歩いていた。
まだ心臓は激しく鼓動を繰り返している。彼は職場までの道すがら、頭の中で何度も男の顔を思い浮かべたが、それはどんどんボヤケていった。
「退け」
「邪魔だ」
「あっちへ行け」
今朝の中年男性のように、彼に掛ける言葉は、その存在をどかせるものばかりだ。時折、彼に話しかけるものがあっても、道を尋ねるか、カメラのシャッターボタンを押すように頼む旅行者くらいのもの。それだってめったにあることではなかった。大抵は彼に近づいた時に思い直して避けるか、話しかけたとしても、その表情を見ると、足早にそこを去ったのだ。
「おい、俺には聞かないのか?」
ある朝、一人の若いスーツ姿の男性が、男に詰め寄っていた。彼は昨日、突然の解雇を言い渡され、今朝までこの駅近くで酒を呑み、まだ完全に酔いの中にいた。普段なら我先にと男を避けるルートを選んでいたタイプであるが、まだ色濃く残るアルコールの影響は、判断力を大きく鈍らせていたようだ。
自分から話しかけるのは初めてのこと。しかし、男は彼の前から姿勢を正し、道を空けて立つだけだった。
「……何だこの野郎、その態度はよお! シカトしてんじゃねぇぞ!」
凄んで近づけば、男は更に脇に一歩ズレて、通り道を作るだけだった。
「逃げてんじゃねぇよ! 今日は聞かねえのかよ、願い事だかなんだか……」
男は道を開けるのを止め、胸から古臭い手帳を取り出すと、眼の前でパラパラとめくり出す。大きさも厚みも普通のよくある物だったが、ページをめくる音はいつまでも続いていた。
「おい、聞いてんのかよ!」
しびれを切らせて彼が近寄った時、男は手帳のあるページを開いて、その顔の前へと突き出した。
「あなたの願いは二年前、私に『どけ』と言いました。だから私はこの通り『どく』だけだ」
「は、はぁ? バカにしてんのかお前!」
最初から絡む事が目的だった彼にとって、男の行動原理などどうでも良かった。怖がり、怯え、許しを乞う態度でも見せなければ最初からこうするつもりだっただろう。彼は男の胸ぐらを掴み、近くの壁に押し付けると、醒めやらぬアルコールで淀んだ目を歪ませ、これみよがしに拳を握ってみせた。
「ああ、いけない。これでは『どけ』ないでしょう?」
「何を言ってんだよお前はよぉッ!」
自分を鼓舞するように大声を上げ、彼は男の顔面に拳を振り抜いた……
─── ずちゃッ!
急に胸ぐらを掴んでいた手が軽くなり、バランスを崩しながら、彼の拳は壁に擦るように強打した。皮膚がめくれ、酔いと興奮で麻痺しているとは言え、激痛が走る。四つん這いになってその拳を抑え、怒りの形相で男を睨みあげる。
「あん……? 野郎ッ、どこ行きやがった!」
辺りを見回してもその姿は見当たらず、ズキズキと痛む拳の痛みに、彼は少し酔いが醒めたようにも見えた。諦めたように自分のカバンを拾い、近くの公衆トイレに行くと、水道で傷口を洗う。
職を失い、やけ酒に酔い、変人にケンカを売って怪我をする。全くバカバカしい話で、普段の自分なら考えつかない行動だった。痛みと興奮からやや酔いが冷めたとは言え、未だ胃の中にはジンジンとした強いアルコールの刺激が残っている。
怒りや破壊的な感情から、アルコールは『悲しい』という気持ちを引き出し始め、彼は薄暗い気持ちの中で、拳にハンカチをぐるぐると巻いて応急処置をすると公衆トイレを出た。
妻にはどう説明しよう……?
家には妻と、まだ幼い子供が居る。職を失った薄暗い気持ちと、そんな二人を置いてやけ酒で一晩外で過ごしてしまった。そして説明し辛い拳のケガ。気持ちはどんどん後ろ暗くなる。
「……何か夢はありませんか? 叶えたいことは?」
公衆トイレから出てすぐ、彼は眼の前でいつも通り例の問いかけをしている男の後ろ姿に出くわした。怒りは沈んだはずだった。しかし、自分の思いや行動が全く何もなかったかのように、平常運転で歩き回る男の姿に、何ものとも言えない感情が膨れ上がる。
「おいっ、アンタ! バカにしやがって……!」
後ろから男の肩を掴んでこちらを向かせようとするも、男は彼の手を難なく払い除け、道を空けた。『まるで相手にもされていない』そんな印象が彼に刻み込まれた。もともとは、彼の方が男を相手にもしていなかったはずなのに、理不尽ではあるがそれがまた彼を追い詰める。
「お前みたいな変人にまでバカにされるなんてな……! 俺はもう死にてえよ」
言葉の後半はこみ上げる嗚咽を抑えるのに揺れていた。そして膝から崩れ落ちる彼の肩に、男はそっと手を添えて、柔らかく自愛に満ちた微笑みを浮かべていた。男の顔には少し赤みが差し、落ち窪んだ眼の周りさえ少し色良くなっているように見えた。
「……それが新しい願いですね?」
彼はそんな男の初めて見せる表情と、思いもよらぬ言葉に目を丸くした。
「へっ? 願い?」
「叶えましょう。あなたの願いを」
そう言い残して、男は去って行った。彼はその後姿を、ただ呆然と眺めている。
(叶える? 願いを? 俺、あいつに今、何を言った?)
やがて男の後ろ姿は人混みに消えた。一体何だったのか。頭の中には男の微笑んだ顔がはっきりと刻み込まれている。しかし、何かされた様子もなければ、相手はもう目の前にいない。しばらく座り込んでいたが、彼もようやく目が覚めたように立ち上がり、改札口に向かう方向へと歩き出す。
拳はハンカチで抑えていてもまだ痛い。見れば血も滲んでいる。バカなことをしたものだと、ふっと笑いながら、カバンの中の定期を探そうと姿勢を崩した瞬間だった。
「ヒュー……ヒュー……」
最初、それが自分の口から出ている音だとは気が付かなかった。視界が暗く、狭い。気道が狭まったように息を送り込めず、そんなに吸い込もうとしても空気が肺に届かない。
助けを求めて人々の流れに向かうも、声が出せず、前かがみで内股になりよろめいた。周囲の人々はそんな彼を一瞥し、避けるように道を空けて避けていた。
「…………(胸が、息が、誰か助けて!)」
とうとう立っていられなくなり、改札前の一番混雑する辺りで倒れ込んだ直後、強烈な力で叩かれたような衝撃が胸に走り、何かが破裂するような鈍い音が彼の耳にだけ聞こえていた。
※
「ここでパパは亡くなったのよ……」
「なくなる? パパ、どうしたの?」
「…………もう、パパには会えないってことなの」
幼い娘は理解が出来ず、母親のスカートの裾を不安そうに掴んでいた。母親の顔には深い疲れが見えた。夫の死をまだ受け入れられず、しかし、処理は淡々と進んで行き、葬儀も終えた。ここには未だ受け入れられない自分と、まだ何も理解できていない幼い娘にためにと訪れていた。
人の少ない時間を選んでも、その混雑は大変なものだった。喪服姿の母親と、よそ行きの服に身を包んだ娘。そんな母娘の存在を、人々はせわしなく避けて道を作っている。
「……何か夢はありませんか? 叶えたいことは?」
その声に振り向くと、母娘の前に黒いスーツの男が立っていた。
「あら……もしかして夫のお知り合いの方ですか?」
男の黒いスーツ姿に喪服だと勘違いした母親は、彼の顔を見つめる。しかし、男はただ、彼女の顔を見つめ返すだけだった。
「……何か夢はありませんか? 叶えたいことは?」
彼がもう一度そう質問すると、彼女は夫が最期を向かえたであろう床のタイルの1枚を見下ろし、男の方を見るでもなく、呻くように呟いた。
「彼はここで亡くなったんです。会社を解雇されて、飲めないお酒なんか浴びるように飲んで……。主人がいなくなって、これから娘と二人きりなんですよ。どうやって暮らせばいいんでしょうね。もう何をどうすればいいのか……」
彼女はそこで言葉を詰まらせ、娘の頭を撫でた。
「……何か夢はありませんか? 叶えたいことは?」
「願いですか? そんなもの……、娘とふたりで、この世から消えてしまいたい……」
そう言って、ただ静かに涙を流した。男はそんな彼女の肩に手を乗せ、柔らかな微笑みを浮かべた。
「それが願いですね?」
母親は床のタイルを見つめ、幼い娘は男の顔を見上げて、一心に微笑みを返していた。
「叶えましょう。あなたの願いを」
そうして彼は去って行った。
「ママぁ~、いっちゃうよ。かみさま」
娘の声にはたと気が付き、彼女は慌てて娘に微笑みを返すと、男の姿をキョロキョロと探すが、もうどこにも見当たらなかった。
「……もう、かみさまじゃないでしょ。あの人はおじさん……いえ、お兄さん? あれ、おじいさん?」
彼女は男の顔が思いさせなかった。どんな年齢だったか、そもそも本当に知り合いだったのかすら、もう何も分からなかった。
「……さあ、おうちに帰ろうか」
そうして母娘は手をつなぎ、さっき降りた駅の改札へと歩き始めた。
─── フッ!
「あれ? 今まで眼の前に母親と小さい女の子いたよね? き、消えたんだけど!」
「……見間違いだろ、きっと。これだけ人がいるんだからさぁ」
母娘の後ろを歩いていた大学生風のカップルだけが、その一瞬を目にしていた。しかし、これだけ大勢の眼の前でそんな事が起こるはずがないと、頭の中から消されようとしていた。
この後に、1日を過ごして、帰りの満員電車に揺られれば、忘れてしまうだろう。彼らにすればそれだけの事なのだ。
都内でも有数な巨大ターミナル駅。複数の私鉄や、高速バスへの連結が集中し、常に人々で溢れかえる交通の拠点。その改札前の広場に一時置かれていた花束も、やがて片付けられた。
そして今日も、雑踏を流れる人々に、その質問は投げかけられた。やはり、彼に関心を持つ者はない。だが、繰り返し問いかけられる。
「……何か夢はありませんか? 叶えたいことは?」