曾祖父さんの代から続く一軒家。聞こえは良いが、ただただ古いだけでどうにも居心地が悪い。断熱性能なんて無いに等しいから、夏は暑くて冬は寒い。部屋は増改築を繰り返したもんだから、一々使い勝手が悪い。
見えだけで設計されたような、暗くて狭く無駄に長い廊下。黒光りする床板は、歩く度にギシギシと悲鳴を上げるし、その振動でカタカタと笑うように、格子の中で震える薄い曇ガラス。何度取り替えても、数が合っていないからか、薄暗い室内灯。明り取り窓は妙に多いのに、間取りと調和が取れていないから、ただただ薄暗い家。
大学浪人二年目で追い詰められている俺を、余計に陰鬱とした気持ちにさせている要因だ。
年の瀬も近づいた年末、受験へと否応なく気持ちが張り詰め始めた、そんな時期のある深夜の事。その日は強い北風に吹かれて、家中が揺れているようで、ただでさえ勉強机から立つのが億劫に感じられていた。でも尿意をこらえきれずに、俺は英単語をブツブツと唱えながら、廊下の奥にあるトイレへと向かった。
用を済ませて、手を洗おうとしていた時、廊下を裸足で歩いていく音が聞こえた。一緒に暮らしている父か、それとも母のどっちだろうか? そんな事を思いつつ、自分の足元に目をやって、それが奇異な事だと気がついた。
───この家で、裸足で歩く者などいるはずがない
経年劣化ですり減った廊下の床板は、所々でささくれが出来ている。裸足で歩こうものなら、足の指や爪の間に入って、かなり痛い思いをするからだ。スリッパも履かずに、あんな軽快に歩くなんて考えられない。
それに足音にも違和感がある。父親だったなら、もっとドスドスと、雑な着地音。母親ならゆっくりと軽い音がするはずだ。しかし、まるでその足音は、小~中学生の子供が、おどけて走るようなリズムに思えた。足音はこのトイレの近くから去っていく。
その違和感に気を取られたようだ。慌ててドアを開けても、もうそこには足音の主の姿はなかった。
「なあ、母さん。やっぱりこの家、変じゃないか?」
翌日の夕食後、母親にそうこぼしてみても、こちらを一瞥する事なく、不機嫌そうに食事の片付けをするだけだった。
「お前、またリフォームしろとか、言うんじゃないのか?」
父親はテレビを見ながら、痰が絡んだような声でつぶやいた。昔からこうだ。この家の事について触れると、両親は急に無口になる。昨夜の様な現象は、初めての事なんかじゃない。幼い頃から妙な出来事はこの家で体験していたし、その度に両親に打ち明けていた。
しかし、決して取り合ってはくれず、むしろ『変な事を言うんじゃない』と叱られた事すらあった。今回もそんな類の出来事。ただ、今回の『足音』はやけにはっきりと頭に残っていて、薄気味悪いのはもちろん、何だか嫌な予感がしていた。
そんな予感が当たってしまったのだろうか? それから数日後、今までとは比べ物にならない頻度で、この家に起こる怪現象が続くようになってしまった……。
廊下の角を曲がっていく裸足の足が見えたり、廊下に面した曇ガラスの向こうに人影が見えたり、俺の部屋の前を走り去っていく音がしたり。それらは必ず廊下で起こっていて、部屋の中で遭遇する事はなかったものの、頻度と距離がどんどん近くなって来ていた。
『もし鉢合わせたら、それをはっきりと見てしまうことになる』そんな不安が膨らんで行くが、両親は気にしている様子もない。そうして更に数日後、俺はとうとう限界を迎える出来事に遭遇した。
※
その日の明け方、とうとうそれは俺の部屋に入って来た。部屋に充満する重苦しい空気と、吐き気のするような耳鳴りで目を覚ますと、何者かが俺の枕元に立って、お辞儀をするようにかがんで顔を覗き込んでいた。影になっていて顔は見えない。カーテンの隙間から漏れる明かりを背景に、だらしなく広がった髪の毛の先が揺れて見えている。
『このやろうッ!』声にならない声で叫びながら、恐怖に固まる体を起こそうとすると、その影は踵を返して廊下に出て走り去っていく。たった今それが出ていったのが現実だと証明するように、部屋のドアがキィキィと小さく鳴いて、まだ動いている最中だった。
走り去っていく軽快な裸足の音に、俺は恐怖を超えて、怒りに震えだしていた。
「─── やっぱり変だッ! こんな気持ち悪い家で、勉強なんか出来ねえよッ!」
その日、夕食になる前、両親に明け方頃の出来事を全て話した。しかし、反応はいつも通りで、目を合わせようともしない。その態度に我慢の限界を向かえた。一度怒鳴りだしたら止められない。気がつけば今までスルーされ続けた恨み言も、その溜め込んだ全てでもって怒鳴り散らす。
思えば親のはぐらかす態度もおかしい。真っ向から否定ではなく、いつも目を逸らすような、取り合わないように徹するような態度。それもずっと引っかかっていた。
「なぁ、何か隠してるのじゃないのか? いくらなんでもおかしい、なんでいつも目を逸らすんだよ……」
そう畳み掛けると、父親が深くため息をついて、下にずれた眼鏡の上から、立ち尽くす俺の目を見上げた。何かを言おうと口を開きかけたその時……
───俺の背後から、廊下を走り去る裸足の足音が響いた
「おいッ! 待てよッ!!」
「止せ! 追うんじゃない!」
珍しく父親の強い語気を背に、俺は廊下に出て走り出していた。影は廊下の角を曲がり、トイレのある奥へと向かっている。それほど速くもないし、走っているわけでもなく、歩いているわけでもなく、やけに膝を使わずにまっすぐ伸ばしたままの異様な足運び。
気味の悪さや恐怖心は不思議と感じなかった。それよりも自分の知らぬ何者かが、我が物顔で家の中を歩き回り、俺の生活を脅かしている事に我慢がならなかった。
もう少しで追いつくと思われたその時、影は唐突に向きを変えて、廊下の何もない壁に吸い込まれるようにして消えていった───。
思わずその壁に両手のひらを当てて、しばらく呆然としたが、息が整うと共にもう一つ疑問だった事が頭に蘇る。
俺はそれを確かめるために外へ飛び出して、小さなドブ川と雑草に邪魔された、普段は殆ど行かない家の裏手へと回り込む。
「……やっぱりだ」
小さい頃、何度も『危ないから』と近付く事を注意された裏手。確かにドブ川にでも落ちたら、どんなケガをするか分かったもんじゃないが、それでも小学生の頃に何度かこっそり見に行った事はあった。その時はいまいちよく分かっていなかったけど、今ならその違和感がはっきりと見て取れた。
トイレ近くの外壁に、明らかに妙な出っ張りがある。そんな所には何もないし、その位置はさっき影が吸い込まれていった先だった。
俺はもう一度家に戻り、玄関脇の納戸から工具箱を引っ張り出していた。気がつくとそこに両親が立っていて、薄暗い電球の下に親父の顔に影が差している。その父親の肩に手を添えるようにして、母親は顔を背けて立ち尽くしているようだった。
「母さん。……そろそろこいつにも、話してやろうか」
母親は小さく頷いて、俺の方へ一歩踏み出すと、父親と同じく電球の光を受けて、その表情を影に潰された。
「…………あなたがお腹にいた時。最初はね、三つ子だったのよ。安定してきてね、もう安心だねって言う時に、あなたの成長が急に激しくなったの」
母さんの表情は影になっていて見えない。声も体も震わせる事なく、抑揚のない声で淡々と話す姿は、ショッキングな事実を告白するというより、まるで背負い込んでずっと向き合ってきた事を説明しているだけのような感覚すらあった。
「お医者さんも信じられないって言っていたけど、それくらいあなたの成長は物凄いものだった。私からの栄養だけでは足りなくて、あなたは残り二人を吸収してしまったの……。バニシングツインって言うんだって。でもね、あの子達は死んだわけじゃない。この家であなたと一緒だったのよ」
そこまで一気に話した母親の言葉を聞いて、ショックのような、逆になんにも感じない事にモヤモヤするような気持ちが渦巻く。だが、それはそれ、これはこれだ。『じゃあ俺の生活に踏み込んできてるあの影は一体何だって言うんだ』この怒りにも似た、または自分の領域を踏みにじられるような嫌な感覚は、もう抑えられもしない。
「や、止めろ! 止めてくれ……」
父親の消え入りそうな声を背中に、俺はバールを持って廊下を走り出していた。もうそこに何があるのか確かめなければ、気がすまない。振り切られた父親は廊下の入口で転倒し、母親は座り込んで嗚咽を漏らしていた。
そうして古臭い土壁の前に立ち、廊下を軋ませながらバールを振り被る。
ボロボロと崩れ落ちる土壁と、その後ろから出てくる竹を組んだような下地は、簡単にぶち破れる。その隙間からオレンジ色の光が漏れている。やはりこの奥に居る!
最後にひときわ大きな下地の固まりと、その向こう側にある壁紙を壊り割いた時、その部屋から明かりと共に生暖かい空気が流れ出してきた。
「…………ッ!?」
そこにはちゃぶ台を挟んで座る二人の俺がいた。年も同じ、背格好も同じ、全く同じ顔が二つ、俺を見上げている。
この冬に出して来たような、やや新しく目の整った清潔そうなグレーのセーターを着て、ついさっきまで飲んでいたであろう湯呑をそれぞれの前に置いて。
言葉を失う俺を見上げる、物欲しげな沈んだ目も、俺そのものだった───。