
目が覚めると、羽が生えていた。誰かのいたずらかと思ってみても、僕には友達もいなければ、心当たりのある人もいない。いたずらだったとしてもまず、意味がわからない。ひとつハッキリしているのは、羽根には感覚があり、実に自然と背中から生えていると言うこと。どうやら本物のようだ。
と、ここまで考えて、ようやく事態の深刻さに気がついた。世の中にこんな人間が他に存在するだろうか? こんな姿になってしまって、普通の暮らしなどできるのか、職場でどんな顔をされる? 考えれば考えるほど、自分に起こった異変と、これからの生活や人生に不安が募っていく。
なぜ、自分がこんな目に合うのか。近くで原発事故でも起こった? 無駄に鳥に悪いことをして、恨みを買われたことは? 遠い先祖が鳥だった?考えれば考えるほど混乱するばかりだ。
「と、とにかく会社に連絡しなきゃ!」
しかし、通勤片道2時間の僕が、今職場に電話をかけたとしても、誰も出社なんかしていない。ニュースサイトを見ても、ごく普通のエンタメか、どうでも良い記事しか回って来ない。そもそも頭の中がいっぱいいっぱいで、文字が頭に入ってこなかった。
カーテンを開けて外の様子を見てみる。特に変わった様子は見られない。それはそうだ、近隣に住宅が無くて、住民も僕以外に3部屋しか埋まっていないボロアパートの周りに、そもそも人の気配なんてありゃしないんだ。
頭がおかしくなりそうだ。いや、とっくに頭がおかしくなっていたから、こんな幻覚を見たりしている可能性だってある。
「痛ッ」
部屋でうろうろしていたら、興奮で少し広がっていた翼が、押し入れに引っかかってアームロックみたいになっていた。痛い。これは幻覚なんかじゃないぞ? だいたい翼の先の風切羽がどこかに触れたって、その感覚が肌に伝わって来ているくらいだ。
どうなってしまうのだろう……。漫画みたいに実験施設みたいな所に連れて行かれて、あれやこれやされたりするのだろうか? それとも、何か凄い能力も発生していて、ヒーローみたいになれたり……。
いや、ヒーローはないな。室内をうろうろしただけで息が上がっているし、それっぽく手の平を突き出してみたけど、何かが発射されるようなこともない。
考えてみれば、今の暮らしより何らかの研究施設に送られたほうが、楽だし刺激があるのかもしれない。もう僕は考えるのを止めて、いつも通り出勤してみることにした。もう全然寒い時期ではないけど、薄手のコートを羽織って翼を隠し、深呼吸を数回、外に出てみることにした。
─── 飛んでいる
いくつかの影が山の向こう、都心に向かう方向に羽ばたいていくのが目に飛び込んだ。あの大きさはどう考えても人間だ。
僕はもうコートを脱ぎ捨てていた。まるで生まれた頃からそうだったように、僕の翼は思う通りに動かすことが出来た。何度か曲げ伸ばしして感覚を確かめ、少しの向かい風に合わせて強く大きく羽ばたくと同時に、タイミングを掴んで脚ではずみをつける。そこからは考える事もなく、小刻みに羽ばたいて勢いを付け、風を受けて一気に上昇していた。
僕は飛んだ。初めての事なのに、もう当然の事だったかのように、興奮も恐怖もなかった。その感覚を証明するように、見れば至る所で同じ様に飛んでいる人々がいる。高い所から見下ろすと、車はおろか自転車一台だって走っていない。
いつもの通勤電車、その線路も見えるけど、車両が動いている様子もない。昨日までのあの鬼気迫る満員電車はなんだったんだろう。朝から押し合いへし合い、見られてもいない自分の行動や仕草を気にしていた、ただただ消耗しかなかったあの時間は。
この分ならいつもより早く職場に到着してしまいそうだ。それならもっと高くに飛んでみよう。もう忘れてしまっているけど、かつて一度は口にしたであろう鳥人間になれたのだから。
ゆうゆうと空を満喫して、会社付近で高度を落として行くと、ある路地裏の片隅に人影が見えた。どうやら男性のようだ。しきりに辺りをうかがい、怯えた様子で通勤カバンを胸に抱きしめた、スーツ姿の男。それを不審に思い、近づいて行った時に、僕はギョッとした。
男の背中には翼がなかった。
「おいっ! みんなっ! ここに変なやつが居るぞ!!」
男は怯えきった顔で僕を見上げ、表通りへと逃げ出したが、脚をもつれさせて転倒していた。それを近くにいた数名が取り押さえられ、しばらく大騒ぎになっていた。
※
いつも通りの意味のない朝礼を終えて、僕はニュースサイトを開いていた。と、背後に気配を感じると、まあまあ世間話ぐらいは出来る同僚がモニターを覗き込んでいた。
「ああ、それ今朝のやつでしょ? 捕まったんだ」
「え、ええ。そうみたいですね」
「おっかしいよな。羽生えてなかったんだろ? 卑屈な顔してるはこりゃあ」
僕は『はは、そうですよね』とだけ返して、今日やる作業の準備に取り掛かっていた。
あの男はどうなっただろう? どこかの研究施設にでも送られたんだろうか? 酷い事でもされなきゃいいけどなぁ。
そんな事を考えながら仕事を始めた。