Episode
禍々☆パラディン ~初恋は実らない方がいい~
第九章 適合者
第十二話 偽物
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魔剣傷による後遺症『精神的外傷(トラウマ)』。
スタルジャは己が目を逸らした、
過去の悲劇が繰り返される精神世界に囚われた。
守護神契約により、
夢を通じてスタルジャと接触を図るも、
その進捗は遅々としている。
深く静かに披露しているアルフォンスを、
ティフォは強制的に外出させた。
海岸でアルフォンスは二人の男と出会い、
そこで酒盛りを始めるも、
酔いつぶれた灰狐の男を介抱し、
送り届ける事となる。
しかし、その男は、
何らかの機関に属する、
アルフォンスを狙う人間だった。
甘い芳香が、薄い月夜の暗闇に立ち込め、潮の香りを掻き消した。ジリジリと距離を測るように、アルフォンスの周りを、黒装束の影が囲いこむ。
ヒィィ……ィィ……ン
垂らした前髪で右眼を覆った、狐目の男の両手では、しのび泣くような刃の共鳴が続いている。手の平に握るナックルの先に伸びる、人の頭ほどの長さの薄い諸刃は、一部ノコギリのようなギザギザの溝が彫り込まれていた。
(足運び、気配、武器の形状……。暗殺者、間諜の類いか?)
コートの袖に隠す、暗器のような両手の得物、そして傷口を広げやすい加工。刃物そのもので殺す目的ではなく、速度と取り回し重視で傷をつけるのが狙いだと、そうアルフォンスは読んだ。ほぼ、毒なり呪術なりが仕込まれていると、考えた方が賢明だろう。
「仕事熱心な兄ちゃんだな。まさか海岸で、ずっと俺が来るのを待ってたのか?」
アルフォンスの言葉に、灰色狐はくすくすと、八重歯をのぞかせて笑う。
「ははは、まさか。あなたが自分から近づいてくるとは、全く思いもしませんでしたよ♪ 近々、そちらにお邪魔する予定でしたけどね。予定が繰り上がって、僕も驚きでした」
「へえ……。じゃあ、あの金髪の旦那もか?」
「あはっ、彼は全く関係ありませんよぉ~! 悪人なら幾らでも巻き込みますけど、振る舞い酒を頂いた善人は流石にね。僕の美学に反しちゃいますから断言しときます」
「だろうな。お仲間だったとしたら、茶番に過ぎる」
酔った演技、急な予定変更での仲間の配置、そして実行するための土地設定。黒装束の面々からも、相当に高い練度がうかがえるものの、彼らからは『金で動く乱雑さ』を感じられなかった。
(これはプロはプロでも、殺し専門。ただの雇われゴロツキじゃなさそうだ)
殺る気なら、最初から無感情に遂行しているはずだ。問い掛けに応じて無駄な語りを入れる辺り、役人だと言う彼の言葉も、案外真実かもしれないとアルフォンスは考えた。何処かの国の諜報、工作部隊と言った、洗練された暗部の空気を感じられる。
「で、何だってこんな所で、俺はお役人に囲まれてんだ? なんも荒事もしてねえし、職務質問にしては物々しいな」
「あー、僕もあんまり乗り気じゃ無いんですけどね。理由とか狙いとかも、守秘義務なんで、勘弁してくれません?」
「なるほどね。少なくとも、交渉に慣れてない部署で、ワンマンな王様の国の役人ってくらいは読めたよ」
灰色狐は苦笑して、耳の横に上げた人差し指を、スッと前に突き出した。
「これだから、鋭い良民ってのは、可愛がられないんですよ」
冷め切った言葉が、ぽつり。その声の出始めには、生温かい飛沫が散り、石畳の路面にピシャリと叩きつけられる水音が響いていた。青白い刃の煌めきが描いた、六条の残像は、もうすでに消え去ろうとしていた。黒装束の者達の内、先頭に配置されていた、第一陣の刃が中心にいたアルフォンスへと振り下ろされている。
夥しい血液が、街道を紅く染めていた─── 。
「……なんつーか、他愛も無いって感じですかね」
灰色狐のため息交じりの言葉に、第一陣の黒装束達が、背筋を伸ばして振り返った。
「アルフォンス・ゴールマインかぁ……。人選を誤ったんじゃないかなぁ、これは」
頰に掛かった深紅の飛沫を、長い舌先がぺろりと舐めとる。その口元が、笑いを堪えるように、波状に歪む。
「もういいよ、君達。お疲れ様でした」
ドサ……。ドグシャ……ッ!
第一陣の黒装束達が崩れ落ち、街道に響く鈍い肉の音と、六本の剣の転がる乾いた音。やや遅れて、第二陣として外側を囲んでいた黒装束の輪の、三分の一程が同様に沈んだ。
「ねえ、やっぱあなた、魔人族かなんかっしょ?」
「さあな、自分では人間だと思ってるけど、違うのかね。どう思う?」
微かな風音の下、ギリギリと革ベルトを引き絞るような音が響いている。音の発生源は、足を地面から浮かせて、力無くだらりと垂れ下がった、ふたりの黒装束の首元。そのふたりの間から、紅い眼が愉しげに細められて、月の光に煌々と照らし出されていた。
両手にそれぞれ首を掴んで、ギリギリと締め上げながら、軽々と持ち上げている首を握り潰され、宙に持ち上げられたふたりは、すでに事切れて膀胱の中身を滴らせている。その鼻から下を覆っていた布も、首に食い込んだ手に引き下ろされ、ぶくりと膨らんだ頰と舌を露わにしていた。
街道の石畳の段差を、黒装束達から血が流れ落ち、ぴちぴちと静かに聞こえている。アルフォンスは爛々と輝く目で、周囲に転がる黒装束の骸を見下ろして、口角をクッと持ち上げた。
「赤毛に鳶色の目、彫りの深いこの顔つき。なぁんだ、あんたら帝国から来たのか。あっちは遊べるような、穏やかな海なんてねえもんな」
「ク……ハハハ! 失礼だなぁ、流石に遊べる海くらいはありますよ。泳いだら死にますけど」
灰色狐は投げやりな表情で、手の平を広げて、再び合図を送る。彼らもその実力差には、気がついているだろう。目の前の丸腰の男には、毛程の傷を与えられず、生涯を終える結果となる事に。しかし、彼らは躊躇ひとつ、瞬きひとつせずに、持てる全てを刃に賭けた。
ボッ
踏み込んだ間合いの、半分にも満たぬ場所で、全員の動きが唐突に止まった。アルフォンスに動きは一切ない。ただ小さく爆ぜる空気の如き音が、ほぼ同時に重なって、辺り一帯から発生していたのみ。
数人がビクビクと、体を痙攣させている以外は、目を見開いたまま硬直している。直後、彼らの体は一斉に持ち上がり、見えぬ柱に串刺しにされたように、夜空に吊るし上げられた。アルフォンスの不可視の触手が、全ての襲撃者を貫き通し、宙に吊るしている。
「……つい最近な、痛い目に遭ったんだよ。で、身に沁みたんだ『俺は付き合い過ぎだ』ってな」
「そーいう事を、わざわざ教えてくれる辺り、まだ付き合い過ぎじゃないですかね?」
唯一それを躱していた灰色狐は、細い目を薄っすら開けて、詰まらなそうに呟いた。
「いやぁ、人選ミスは否めませんね。これは上司が悲しむなぁ。これだけの人材育てるのに、どれだけコスト掛かってるか分かります?」
「知らねえよ。税金の使い道考えるのが、あんたら役人の仕事だろ?」
「払ってる方も、考えるべきだとは思うんですけどね─── 」
ギキィィ……ンッ!
赤い火花が散る。唐突に間合いを詰め、振り抜かれた青白い刃が、ふた振りのククリ刀にそれぞれ阻まれていた。突如現れたアルフォンスの得物に、灰色狐は驚いた顔をしつつも、長い舌でぺろりと唇を湿らせて八重歯を見せる。その瞬間、黒装束達の屍が、猛烈な勢いで男に投げつけられるも、灰色の髪を揺らして難無く避け切ってみせた。
「へえ。曲刀使いって聞いてたのに、帯刀してませんでしたから、てっきり不用心なお馬鹿さんかと思っていたら……。なるほどね、余裕なわけだなぁ」
そう言って笑った姿がブレる。しなやかな体をくねらせるように、手足の動きを加速させ、縦横無尽の猛攻が始まった。時に闇に溶け込み、時に月明かりを利用して、闘いのリズムを奪い去る巧妙さ。人間の動体視力を凌駕した、灰色狐の刃の暴風は、先ほどまでの襲撃者と次元が違う。
だが、アルフォンスは、それが己を脅かすものだとは、全く思っていなかった。
通常の刃物とは異なり、腕にはめ込むタイプの武器は、闘い方や振り抜くコースに変化が多い。だが、扱う者が人型である以上、人体の動きには制約がある。如何に視覚を超えた速度の斬撃と言えども、体幹は手足ほどには素早く移動せず、手足の予備動作が必ずそこに現れるものだ。
体の芯を見通せば、自ずと両手の刃のコースは読み取れる。それに、剣の速度ならば、ソフィアの方が遥かに上、破壊力ならば赤豹姉妹の方が遥かに勝る。目を慣らすまでもない。
パァンッ!
アルフォンスのローキックが、灰色狐の踏み込んだ脚の膝関節を、刈り込むように捕らえた。腰の回転を乗せた蹴り脚は止まらず、そのまま男の体をすくい上げて、宙に大きく回転させる。その胸元へ、アルフォンスのククリ刀の一閃が、神速で振り下ろされた。
ピュンッ!
瞬間、再び強烈な火花が散り、灰色狐の体が飛び退いて、間合いを広げる。空中で袖の中から新たな武器を弾き出し、持ち替えたその刃で、ククリ刀の一撃にカウンターを合わせていたのだ。アルフォンスは、カウンターを弾く事には成功したものの、その衝撃を利用して灰色狐の体制を整える事を許してしまった。
「何だそのコートは。最近の役人は、手品も覚えさせられるのか?」
狐の持ち替えた得物は、薄くて細い波形の剣。レイピアのようにたわみ、腰のある刃は、腕の速度以上に加速していた。その刃渡りは、隠していた袖よりも長く、単に仕舞っていたとは思えない。アルフォンスの呪いの武器達のように、手元に呼び出す際の、わずかな魔力も感じ取れなかった。
「…………」
確実にカウンターが決まると思っていたのか、灰色狐は驚きの表情を浮かべていた。
「せめて、名前くらいは聞いておこうか」
「…………ぷっ」
突然、灰色狐は笑い出した。八重歯の目立つ白い歯を見せて、手品に騙された子供が、種明かしに笑うように。
「あはは、あはははははっ! 凄い! 凄いですよアルフォンスさん! これは任務とか、言ってらんないなぁ♪」
「だから、お前の任務は、何なんだよ」
問いを無視して笑う狐に、アルフォンスは苛立ちを覚えた。話が通じない事への苛立ち、それよりも今彼にあるのは、自分の到達すべき目標が達成出来ない事だ。
─── 魔王としての闘い方とは?
ここまでの間にも、殺そうと思えば、いつでも殺せただろう。周囲を巻き込まぬ為に、魔術を使わずにいる事は、仕方がないとしても。奇跡、触手、そして本気の一撃くらいは、難無く叩き込めたはずなのだ。
(また『闘いの意義』だとか、俺の甘さが出てるのか……? こんなんじゃあ、いつまで経っても俺は……)
小さく言霊を呟き、明鴉・宵鴉の力を解放する。
(ここで変われなきゃ、俺は……!)
その一歩を踏み出した時、アルフォンスの体が、鉛のように重くなった。己に起きた変化に困惑する彼に気づくはずもなく、灰色狐は殺気に満ちた目をそのままに、口元ばかりは満面の笑みを浮かべる。
「やめたやめた……。こんな美味しいの、お預けとか無理ですよ。ここで僕が食べちゃっても、後か先かの問題だよね〜☆」
突如、眼前に迫った刃を、ククリ刀を交差させて受けるも、強烈な稲光が走ってアルフォンスの体が吹き飛ばされた。着地するより速く、雷撃を伴った凄絶な突きが、肩をかすめて衣服を散らせる。
「あれ、驚いちゃいました? さっきまでのキレがないじゃないですか〜。こっちをその気にさせて焦らすとか、流石は婚約者五人は伊達じゃないっすね♪ でも……」
柄の先が、鳩尾と喉に連続して叩き込まれ、アルフォンスの体が、背中から地面に倒された。
「僕、どSなんで、焦らしとかされても、イラつくだけなんすよ。まごまごしてる奴見るとね、血が騒いじゃうなぁ。ぶっ壊してやりたいってね」
アルフォンスの両手首が切られ、双剣が遠くに蹴り飛ばされた。この一連の攻撃、そのどれを取っても、アルフォンスには簡単にいなせたはずである。しかし、今彼は顔面蒼白で、小刻みに浅い呼吸を繰り返すしか出来なかった。
『精神的外傷』。勇者の魔剣に傷つけられた幽星体の後遺症。ローゼンに指摘されていた、その致命的な心の楔が、今ようやく判明してしまった。対峙している灰色狐に起きた変化、それは特に大きな変化ではなく、闘いの中では当たり前のものが発せられただけである。
─── 殺意
(勇者にあったのは、他の命を何とも思わない『殺意』だ。道理でソフィア達との修練では、発症しなかったわけだ。俺の心が、心無い殺意に、体の主導権を放棄してる……!)
手首の傷は、即時に自動再生されている。飛ばされた双剣も、すでに手元に喚び戻してある。だが、体が言う事を聞かない。辛うじて攻撃を躱す事は出来ている。しかし、それは単に体の反射がそうさせているだけで、頭の中は思考を失い、自分が何をしているのかさえ理解出来なかった。
「……何なんです、あなた。さっき僕の可愛い部下とやった時より、動けてないじゃないですか? ちゃんと真面目にやって下さいよ〜」
─── ……だんな⁉︎ どーしちゃった?
─── 明鴉がなんかヘマでもした? ウチに任せて!
異変を感じた明鴉・宵鴉の、キンキンとした声に、棒のようだった脚がわずかに動いた。その勢いに乗じて、ドンと思い切り地面を踏み付け、足裏に強い刺激を与える。かつてまだ幼かった頃、里の修行で大型魔獣に挑まされた時に覚えた、稚拙な恐怖心の払拭方法だった。
「───舞い踊れッ【明鴉・宵鴉】!」
体からごっそりと抜ける生命力、その見返りに流れ込む闘いの為の力。呪われし双剣の、破壊衝動そのままに、彼は体を預け切った。
「……ッ⁉︎」
人智を超えた二刀の乱舞に、飛び退こうとした灰色狐の足の甲を、投げつけられた宵鴉が地面に縫い止める。即座に後退を諦めた狐の反撃を、明鴉の一閃がかすめると、刃を持つ手首から先を容易に千切り飛ばした。
─── アハハッ☆ たーのしー!
─── キャハハ☆ 血のにおいー!
身を預け切ったアルフォンスの内側に、呪いの破壊衝動が、黒く黒く埋め尽くす。紅い瞳が闇夜にふたつ、煌々と輝き、愉悦に歪んで細められた。頭上の樹々からは、枯れ切った葉があめのように降り注ぎ、地に着く前に塵となって消えて行く。
その狂気とも言える殺意に、灰色狐は己の読みの甘さを、深く後悔していた。
「ぐっ!」
灰色狐が小さな石を懐から出し、地面に投げつけると、強烈な光が発せられた。明鴉・宵鴉に支配されたアルフォンスの眼を眩ませる。狐は地面に打ち止められた右足を、二股に割いて引き千切り、その深手を無視して逃走を図った。
「く……っ、ぐ、待て……っ!」
今の目眩しで、双剣の支配は解けたものの、再び体の硬直が戻っていた。逃走した灰色狐の背中は、まだ目で追えている。しかし、逃走を選択した彼の、激しい怒りと憎しみの込められた殺意が漂い、アルフォンスの体から自由を奪っていた。
(くそッ! あいつを逃したら、次はどう狙われるか分かったもんじゃない!)
だが、体は追跡を、殺意に近づく事を拒否してしまう。『闘いに臆した』。実際はそうではなく、これは体の症状なのだと理解していても、アルフォンスは己の無力さに、歯を食いしばった。
遠くで双剣の慌てる声が聞こえる。夜切の悲痛な声も、武器達の叱咤激励も聞こえている。ただ、それらの声は遠く、彼の意思を動かすには、あまりに無力だった。
もう灰色狐の姿は視界から消えた。殺意の呪縛から解けたアルフォンスは、力無くそこに座り込む。
(……どうなっちまったんだよ……俺。こんなんじゃあ、本当に俺が偽物じゃないか……)
偽物─── 。
アルフォンスには、アルファードの頃の記憶が無い。両親に再会できて、過去の映像を見て、その時代を知っても、それと重ね合わせられる記憶は無い。それは自分のルーツが残っていない、言わば自分が亡霊の如き、虚ろな存在としてしまう。
プラグマゥとの闘いでも、姿を現したアルファードの力は、今現在の己を遥かに凌駕していた。そして、勇者の前で、何も出来なかった痛手が、彼に深くそれを刻み込んでしまったのだ。
(本当の俺はアルファードで、俺こそが本当は消え去るべきじゃないのか……?)
アルフォンスとしての記憶が、急速に色褪せ、それが夢だったような錯覚すら覚える。両手から双剣が滑り落ちても、アルフォンスは立ち上がる気力すら、湧いてくる気がしなかった。
その暗闇の込み上げる頭の中に、聞き覚えのある澄んだ声が、凛と響いた。
─── あいつは殺さなきゃダメだよ……?
アルフォンスはその声に力無く答えた。
「……なら、お前がやれよ……アルファード」
そう呟いてうなだれた。そうして、潮騒の音だけが、十も聞こえた頃だろうか。不意に立ち上がったアルフォンスの体を、宵闇よりも暗い漆黒の渦が包み込んだ。
そこには、黒装束の骸だけが、取り残された。
※ ※ ※
───アルザス帝国グレアレス宮殿 法相直轄、白鳳騎士団、執務室
ガタンッ! ガラン……ガラガラ……
魔石灯の光の下、年末の整理に追われていた執務室には、未だ多くの騎士や職員が残っていた。勢い良く立ち上がり、後ろに弾き飛ばされた椅子が、硬い床を滑っていく。周囲で仕事をしていた配下のひとりが、突如立ち上がった上司を、怪訝な顔で覗き込む。
「ど、どうかしました? ヒューレッドさん……?」
アッシュグレーの長い前髪で、左眼を覆った狐目の男が、目を見開いて空を見つめ震えている。倒れたインク壺から、黒いインクがドス黒い血液のように流れ、机上の書類と床を染め上げていた。他の部下が慌てて雑巾を取りに走るが、ヒューレッドは何も目に入っていないかのように、ただ立ち尽くしていた。
「ぼ、僕の……半分が……」
「……はい?」
ヒューレッドは床に力無く膝をつき、天井を見上げて、口をパクパクさせている。余りの雰囲気に、皆が仕事の手を止めて、立ち上がる。
「─── 僕の半分が……死んだ」
そう呟いて、虚ろな目で硬直している彼を、皆は首を傾げて戸惑っている。
「ひそひそ(ほら、最近忙し過ぎたから)」
「ひそひそ(ヒューレッドさん、いつから家に帰ってないんだ?)」
普段から交流の薄い彼に、今何が起きたのか、その場の誰も察する事は出来なかった。
※ ※ ※
闇……真っ暗だ……。何も見えない……何も聞こえな……。
ぺちぺち、ぺちぺちぺち……
何だこれ、頰に何か……?
ぺち……。ちゅっ、ジュボボボボ……!
突然、内臓が吸い出されそうな勢いで、口を吸引されて我に返った。こんなハードなベーゼをする奴は、この世にひとりしか居ない。
「ゲホッ! ティ、ティフォッ⁉︎」
慌てて引き剥がすと、いつものジト目が、俺を見つめていた。
「おは。オニイチャ」
「ティフォ、いつの間に……。ここはどこだ? 何が起きて……⁉︎」
見渡せば森の中だ。樹々の間から遠くをみれば、海からだいぶ離れた、標高の高い場所だと分かる。
「何でこんな所に……う、うわっ⁉︎」
自分の左手に掴んでいるものに、ようやく気が付いた。よく育った瓜程の大きさと重さ、その灰色の毛の塊から、何か白っぽい物がぶら下がっている。灰色狐の頭部、そこから垂れ下がる脊椎や、神経系の繊維質な赤黒い何か。
思わず地面に放ると、力無く開いたあごに引っ張られ、顔の皮が垂れ下がるように歪んだ。恐怖に見開かれた目は、瞳孔の開き切った瞳で、地面を見つめている。髪に隠れていた右眼は、ぽっかりと穴を開けていて、眼球が失われていた。
「こ、こいつは……!」
「パーカー・フェイ・サントリナ。帝国のじょーほー機関しょぞく。魂のかたわれは、ほーしょーの白ほう騎士団しょぞく」
「魂の……かたわれ?」
「ふたごの兄。パーカーはオモテの自分である、兄のため、影にいきると決めた。ここへは、じょーしの命令で、オニイチャのちからを、試しにきた、だけ」
「力を試す?」
─── 『ここで僕が食べちゃっても、後か先かの問題だよね〜☆』
思えば確かにパーカーは、そんなような事を言っていたが、そういう事だったか。人選ミスってのは、俺の力を見るのに、実力不足って意味か。ふと見ると、ティフォは手の平で、コロコロと何かを遊ばせている。
「うっ、それって……」
「ん、パーカーのめだま」
「死体で遊ぶのは……んん?」
パーカーの眼球には、何か術式の跡が残されている。
「それで俺を遠視してた奴が居るのか」
「オニイチャが追いかけて、ぎったんぎったんにする時に、最初にぶっこぬいてたよ? あれは、アルファード?」
「─── ッ⁉︎」
ようやく思い出した。何故俺がここに居たのか。
「俺はまた……アルファードに助けられた……のか」
言い様のない、喪失感と無力感。ティフォが何か言っている。でも、耳に入っても、脳がそれを理解しようとはしなかった。
『偽物』。
俺の中で、何かが音を立てて、崩れ去った気がした───