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禍々☆パラディン ~初恋は実らない方がいい~
第十四章 クヌルギア
第十四章│第二十話 血族
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アーシェ婆の策略により、
ハンネスとリディを分断し、
彼らを幻術に落とした。
しかし、
アーシェ婆もダグ爺も、
襲撃者ふたりの前に散る。
怒りに震えるアルフォンスは、
圧倒的な力でハンネスを倒すも、
彼にはリディから施された蘇生魔術が、
幾重にも掛けられていた。
魔道具を使い、
辛くもリディの元へと転移したハンネスだったが、
そこにあったのは蹂躙されるリディの姿だった。
ソフィアは同じ調律神であるリディを、
圧倒していた。
しかし、
アーシェ婆の絶命により、
幻術が解かれ、
シモンは再びセラ婆を人質に彼らの抵抗を禁じる。
再生を終え、
一方的な反撃に出るハンネスとリディ。
その窮地を救ったのは、
空から現れたティフォとエリンだった─── 。
僕はただ、ダリアと一緒にいたかった。
メルキアのヴァンパイアの家系、その時はヴァンパイアではなく、人として過ごす『人化』の周期に生を受けた。僕は人間として生まれたんだ。
幼馴染で同等の貴族に生まれた女の子、ダリアは初めて対面した時に、運命を感じた。彼女の名はダリア・ディードリット・ウィルキンストン。
一目惚れの、初恋だった。
貴族に生まれたものだから、政略結婚は当たり前。でも彼女はその政略結婚にも選ばれる、まさに理想と現実が重なった運命の女性だった。
僕は生まれつき、力が強すぎた。それは単純な肉体の力だけではなく、あまりにも大きい魔力のせいで、魔術の行使に術式が必要ないくらいに。
思えばそれを起こせる。
欲しければそれを引き寄せられる。
それらはまだ僕が人間だった頃の記憶だ。ヴァンパイアでなくてもできたんだよ、それくらいは。もしかしたら、そのまま成長していたら、あの下町の黒札みんなのように荒んでいたかもしれない。
でも僕にはダリアという存在がいたし、学位を修めることにも強い興味があった。特に医学や薬学に関しては、けっこう頑張っていたんだよ。だから自分の力に溺れることも、驕ることもなかったのかもしれないね。
僕らブラド神族は、その血が濃すぎると、ヴァンパイアの力を抑え切れずに魔物になるという。だから時折人と交わらなくてはならない。そのためにだろうね。僕らには『ヴァンパイア期』と『人間期』を繰り返していく性質がある。
不老不死のヴァンパイアは、やがて心が死んでゆく。そこに人間期を挟み、そこで種を残し、寿命を迎える。そしてヴァンパイア期には種を残せない。実によくできているものだと、初めて父様から教わった時は、感心したものだった。
─── そして、それは突然に起きた
話には聞いていたし、知識はあった。でも自分の魂と肉体がその瞬間に作り変えられるあの感覚は、実際に体験しないと分からないだろう。記憶はそのまま、考えも意思もそのまま。それなのに全くポテンシャルの違う、上位の存在に作り変えられる感覚。
一部の虫は蛹の中で一度液体にまで体を分解して、再構築して成虫になるという。ヴァンパイア化が始まった時の感覚は、それに近いのかもしれないと思った。
─── 僕らは虫と同じなのかな?
昨日までと全く世界が変わっていた。そして全く変わっていたのはダリアも同じだった。
「ハァーーッ! シャーッ!」
淀んだ血で汚れたネグリジェを着たダリアは、ウィルキンストン家の地下牢に囚われていた。青白い肌に黒ずんだ静脈を無数に浮かべて、美しかったマリンブルーの瞳は、やや灰色がかった白っぽい瞳に変わってしまっている。
僕が近づくなり、鋭い牙をむき出して、獣のように威嚇を繰り返していた。
彼女は血が濃過ぎた。ブラド神族の血が濃すぎて、ヴァンパイア化で魔物となってしまったんだ……。
「いやあ、お恥ずかしい。我が家からケモノが出てしまった。シモン様、ダリアとの婚約はお考え直しいただいて、どうですか。あれの妹のアエラなどは……」
こんなに情の薄い人だったかウィルキンストン卿は⁉︎ あれだけダリアを溺愛し、僕にすら時に敵意を向けていた父親が、今はまるでダリアの今後など、なんら意味のないものと捨て去っている!
妹のアエラ? まだ十歳になったばかりの子供じゃないか。
「いらないよ、そんなもの。僕はダリアがいればそれでいい……ッ!」
僕もおかしくなっていたんだろう。気がついたらウィルキンストン卿の首をギリギリと締め付けていた。
そこからの記憶は実に曖昧だ。
ただ必死で解放した彼女に、腕の肉を食いちぎられた時、恐怖と不安と同時に『施している』なんて歪んだ思いに胸が熱くなった。
僕を求めてくれている。僕の血肉が彼女の糧になっている。
バカみたいだけど、僕は本当にそれが嬉しくて、癒されたんだ。僕だけが彼女を支えられる存在になれたんじゃないかって。そして彼女を救う手立てを探す旅に出た。もちろん彼女を連れて。ただ、問題は完全に魔物と化した彼女に与える食事だ。
彼女は人間の血肉を求める。でも、僕は人の命の対価ともいえる血を、見知らぬ者から彼女に与えられるのは我慢がならなかった。彼女には僕の血肉を与え続けていた。だから僕も、彼女の良質な糧となるために、自分の血肉を豊富にしようと、多くの人里を襲ったよ。
人の血は素晴らしい。
あらゆる渇きが満たされて、膨れ上がる力が臆病な僕に勇気を与えた。ヴァンパイアとはこういうものかと納得もした。人の血を飲む時、飢えを満たすだけではなくて、彼らの魂を受け取っている気がしたよ。たしかそんな本も読んだことがある。
ヴァンパイアが人の血を飲み干して殺す時、その魂や性質、記憶の一部を得ていると。だから飲み干す時は相手を見定めなければならない。
そんなことはすっかり忘れて、散々飲み干してしまっていたけどね。
あの黒札民のスラムは、今頃大変なことになっているだろう。人の身でもあれだけ荒れていた。この万能感を得たら、素行に問題のある彼らは、どれだけ堕落して貪るのか。
いや、今の僕は彼らを笑えないな。こうして罪のない人々を、愛する者のために捕食しているのだから。
※
エル・ラト教の聖騎士たちが放たれた。
僕たちが取り押さえられた時、正直あまり覚えていないんだ。なぜ、人間の騎士如きに、僕とダリアを押さえられたんだろうね?
僕は厳重な拘束をされて、アルザスの重犯罪者用の塔の最上階にいた。
どれだけそこに居たのかな。うん、やっぱり記憶が曖昧なんだよ、この辺りは。
ただただ何もない石造りの部屋。決まった時間に出される粗末な食事を摂り、その度に『人を襲わなくても生きていられるじゃないか』と思っていた記憶がある。とはいえ、ヴァンパイアと同等の力を持った魔物と化したダリアは、普通の食事で得られる力では支えられなかっただろうね。
「やあ、こんばんは。私はエル・ラト教の……。うん、全ては言えないがなかなかに上の地位にいるものだ。名をボグズという。どうだろう、少し話してみないか?」
一言でいえばパッとしない。骨太なタイプで、正直暑苦しいし、放っておいて欲しかった。
「……あまりこう言い方をしたくはないが。このままだと君のツェペアトロ家も、ウィルキンストン家も消されるよ?」
家のことなど全く頭になかった。だからそう言われてドキッと胸が鳴った。
そりゃあ、そうだよね。ただでさえヴァンパイア化した時の力を恐れられ、メルキアは他国とはほとんど国交がない。教団からは何かしら疑いの目を向けられ続けていたと、父様が叔父たちと愚痴をこぼしていたのを聞いている。
そのメルキアに再びヴァンパイア期が訪れた。百数十年ぶりの変革は、周囲の人間たちにとって脅威でしかなかっただろう。そんな時に僕は、人里を襲い、その血肉を食らった。
なんだ。僕はただのバケモノじゃないか。
「そこで取引をしようじゃないか」
「…………取引?」
「そう。調書によれば、君は今まで襲撃した村や里を、全て認めているね?」
捕らえられてすぐ、僕は抵抗する意味もないと判断して、全ての罪を認めている。彼らが提示してきた被害者たちの人里のリストは、僕のここまでの旅と一致していたし、全ては覚えてなんかない。だから全て認めた。
「うん。君には素質があるんだよ」
「…………素質? 何を言っているのか分からないな」
「君たちヴァンパイアは、血を飲み干した相手の魂や性質を得られる。そうだね?」
はっきりとした自覚はない。ないけど、初めて飲み干した時、なんとも言えない温かさが胸を包んだのを覚えている。誰かが近くに居てくれる安心感。あれは魂が僕の中に同居した、他者との魂の関わり、その温かさだったのかもしれない。
「我々にはとある予言が与えられているのだよ。君がここに来ることは、もう二百年も前にわかっていたことだ」
「…………」
予言。彼らにもツェペアトロフ家の家宝『プレジチェフルンゼ』みたいなものがあるのかな? それらも、もうどうでも良いことだけど、なぜだか僕は彼の言葉に興味が湧いていた。
「取引の内容とはね。今から君にとある力を授けよう。そしてここから解放する。ただ、君の行先は決まっていてね」
「…………解放? この化物の僕を。それにどこへ行けと言うんだい? 誰かを殺せとでも?」
ボグズと名乗ったこの僧侶は、愉快そうに笑い声をあげ、それを否定した。
「内容はこうだ。『はるか最果ての辺境の地、その先に里がある。そこに行き、癒神の保護を受けろ』とね。君はヴァンパイア化に失敗した、恋人を救うために、秘薬や秘術を探していたんだろう?
─── その答えもそこにある」
あまりにも美味すぎる話だった。それにどこまで彼らは僕のことを、僕らブラド神族のことを調べたのだろう?
ただ、彼を疑う気持ちは不思議と湧いてこなかった。今思えばそれは、ヴァンパイア化したての高揚感から冷め始めた時期なのかもしれないし、単にここから逃走することが不可能だとあきらめていただけなのかもしれない。
たかが人間の扱う魔術で、ヴァンパイアである僕を魅了するなど不可能だろうしね。
「その里に行けばいいのかい? それにさっき僕に『力を授ける』とか言っていたのは?」
「単に里に行くだけではダメだ。癒神の保護を受け、その弟子として薬師となってもらう」
薬師ねぇ。今まで考えたこともなかったけど、確か平原に住む僕らの始祖ローゼン様は、医術と薬術を研究しているとか。ふふ、ヴァンパイアの血に翻弄されて、始祖と同じ道を歩むのか。それもいいのかもしれない。
「細かいことは、私がこれから授ける力を得られれば、自ずと理解できるようになる。君にはその才能があるからね」
「……才能がどうこうはわからない。でも、ここにいたって、僕もダリアも殺されて、ツェペアトロフ家とウィルキンストン家も消されるだけなんだよね?
─── 断れないじゃないか」
ボグズはまた大笑いして机を叩いた。こういう暑苦しい手合いはどうも好きになれない。なのにどうしてか、敵意や嫌悪感を持たないから不思議だ。これが教団の高官になる才能ってやつなのだろうか。
「では、取引は成立ということでよいかな?」
「…………ああ。わかったよ。僕は辺境の地に赴いて、癒神に師事するとしよう」
そう答えるとボグズはにっこりと微笑み、扉の鍵を再確認しつつ、外の気配に耳を立てた。
「うむ。今なら大丈夫だろう。では君に力を授ける。君は特になにもしなくていい。では失礼して……」
そういって彼はガウンを脱ぎ、首にかけていた細長い煌びやかな布を取り払う。簡素なワンピースの大きく開いた丸首の襟から、彼の鎖骨のすぐ下に何かが見えた。
青みがかったアザ。小鳥が横を向いているような形。なんてことのないアザなのに、どうしてだか僕の視線が引き寄せられていた。
ボグズはそのアザに手の平を当て、目を閉じる。何かを念じているようだ。そうしてまもなく、そのアザに当てた彼の手指の隙間から、青い光が発せられた。それは徐々に光を増して、彼の体から離れると、小さな光の球となって浮かび上がった。
「……これはなんだ?」
思わずつぶやいた瞬間、その光球は突然僕に向かって飛び込んできた。思わず反射的に腕で顔を守った時、その腕に温かさを感じた。その熱もすぐに消え去り、痛みがあるわけでも、何か力を得たという高揚感などもない。
「これが一体、なんだっていうんだ……?」
そうボグズにたずねると、彼はうっすらと微笑んで、そのまま椅子から崩れ落ちた。床に叩きつけられる時も、手を出したりと体をかばう様子もなく。
彼はすでに事切れていた。
「……な、なぜ。なぜ死んでいる?」
ヴァンパイア化してから、初めて混乱と恐怖を感じていた。
ボグズの倒れる音に気がついたのか、扉を蹴破るように看守の兵たちがなだれ込み、僕は取り押さえられる。そうして今度は地下の暗い独房に入れられたんだ。
腕を押さえられた時、僕のまくれた袖の下に、あの青みがかった小鳥のようなアザができていることに気がついた。倒れているボグズの鎖骨の下、そこにあったはずの彼のアザがなくなっているのも確認している。
でも、もう困惑はしていなかったんだよ。
だって、僕には『何をするべきか』が与えられたのだから。
独房の中で二週間。ダリアが火炙りで処刑されたと報せを受けたけど、僕の心は揺らがなかった。
ダリアは大切な存在だった。でも僕がやるべきは、このヴァンパイア化に翻弄される、ブラド神族の呪いを終わらせることだ。
それから数日後、なぜか僕の独房の鍵がかけられず、僕の荷物がまとめられた箱が置かれた廊下に出た。やけに看守や番兵が少なかったけど、居るには居る。
僕はそれらを薙ぎ払いながら外へと飛び出して、辺境の地の先にある里を目指したんだ。
※
(クッ……なぜ、なぜ神威が発動しないのでしょう!)
リディは焦っていた。神威を発動して、目の前の敵を殲滅せんとするが、神気が集められずにいる。感覚も鈍り、微かに視界が震えているような振動にとらわれていることに気がついた。
それまで補助をしていたシモンも、その師である人質を失い、今はスタルジャの精霊術で押さえつけられている。仕方なくリディはハンネスへの補助と、回復に専念しつつ、猛烈に襲いかかるソフィアとエリンの攻撃から逃れることに精一杯だった。
(……一体この短期間であの適合者に何が起きた? それにあの異界の女神の少女も、ハンネスが切り捨てたはず!)
彼女には理解が及ばなかった。中途半端で壊れた契約下のままのアルフォンスが、今やハンネスをはるかに凌駕した存在となっている。その秘めた力はその契約者であるソフィアすら、完全な契約を成立させている神の化身の自分をも上回っている。
神を超える存在が今、人界最高峰の戦闘技術と魔術を駆使して、完全なる契約者であるハンネスを何度となく絶命させていた。リディは彼に膨大な数の【自動蘇生】を重ねがけしている。それが数分置きに青白い炎を発して発動されているのだ。
(あの適合者はなんらかの契約の力があったのかもしれません。しかし、あの異界の女神の力は、全く説明がつかない……!)
─── スッ スッ
ティフォが空中に指先で小さく円を描く。ただそれだけでハンネスの膝が捻り潰され、バランスを崩したその足元の地面から、無数の触手が飛び出して彼を槍衾にする。
そのまま持ち上げられ、ビクビクと痙攣する彼の体が、再び青白い炎に包まれた。
「ん。じゅんちょう順調。このまま、蘇生魔術が空になるまで、殺し尽くしてやる」
ティフォがとてつもない力を手に入れていたのは、隣で戦っているアルフォンスも気がついている。しかし彼女の相変わらずの口調。それはこれまで喪失感に苛まれていた彼の心を急速に満たしていた。
「うう……っ、ティフォ……むぐっ」
「オニイチャ、うれしいけど。今は、殺戮にしゅーちゅーな?」
先ほどから何かを言おうとする度に、アルフォンスの語尾に『むぐっ』と嗚咽をこらえる声が入っている。彼は『エイケンの気持ちがやっとわかった』と苦笑しながらも、蘇生が完了した直後のハンネスに刃を振り下ろす。
肉体ごと完全に急所を捕らえた斬撃は、蘇生を終えたばかりだというのに、再び蘇生の青白い炎を立てる。と、その時、ハンネスの様子に変化が訪れた。
シュウゥゥゥ……ッ
細い口先で勢いよく息を吐くような、何か抜けてゆく音がする。その音と共に、ハンネスから輝きが失われ、髪の色がみるみる白く色褪せていった。
「老化……!! もうこいつは調律者として、人々の希望を力にできないところまで消耗してる!」
アルフォンスの声に力が戻った。同時にハンネスからはかすれた声で、ケタケタと力なく笑う声が響きだした。
「ハンネス─── ッ!」
「…………貴女は他を気にしている余裕なんてないでしょ」
エリンの爪がリディの背中から腹部を突き抜ける。そのまま待ち上げられ、リディは大地に脳天から全体重と、エリンの人智を超えた力で打ち付けられた。その投げ技にまで行き渡った闘気が、大地に光の波紋と衝撃波の円を描き出す。
「─── か……はッ! な、なめるなッ!!」
即座に回復の奇跡をまとい、リディはエリンに【切り裂く】神威を放つ。それはソフィアの得意技であり、岩をも賽の目に切り裂く神の奇跡。
しかしそれをエリンは避けることもなく、無防備にその身で受ける。彼女の鍛え上げられた肉体が、ぷるんと震えた程度で、リディの奇跡はその事象を起こし切れずに弾かれていた。
「……むだよ。貴女程度の力では、獣人の究極に到達したあたしに、意思を通すことは不可能」
「…………ッ!?」
力なく膝をついたリディの目の前に、ソフィアとエリンが立ちはだかる。その向こうでは、シモンを完全に沈黙させたスタルジャが、セラ婆の処置も済ませ歩いてくる姿がある。
再起不能にまで追い込んだはずの炎槌、ガセ爺がセラ婆を抱きしめていた。それを遠景に、スタルジャは黒い槍を手に喚び出し、我が身の一部のように操って凶暴な風切り音を上げていた。
リディの心が折れる。神の奇跡はその意思と覚悟の強さが直結するものである。
彼女たちの誰一人にでも、今の私は敵わない。
その絶望的な現実が、彼女から神気を急速に失わせていた。白く美しい指にシワが寄り、節くれだった。急速に起こる老化に、彼女はさらに深く絶望する。
だが、その時。彼女はそれを思い出した。
強烈な怒り。自分よりはるかに下位である守護神たちが、己を貶めたあの瞬間を。そして、今も自分の身に起こっている神気への妨害。彼女に残された神気は、その知覚能力の超絶的な向上に費やされる。
「─── そこかァッ!!」
突如、リディの神気が爆発的に膨れ上がり、老いに呑まれかけていた姿が一瞬で取り戻された。初めて自覚したばかりの怒りの感情。彼女はそこに全てを注ぎ込み、世界の調律に新たな覚悟を刻み込んだ。
エメラルドグリーンの美しい瞳は、白目が漆黒に染まり、怒りに震える龍種にも似た、金色の瞳に変貌する。肌は青白く、艷やかだった爪が抜け落ち、流れる血と共に鋭い爪が伸びた。白いワンピースがドス黒い血に染め上げられ、それは漆黒のドレスとなり、彼女を覆った。
「……だ、堕天ッ!?」
ソフィアの目が驚愕の色に染まる。天の意思を捨て去った神が陥るとされる『堕天』。かつて天界と袂を分かち、異次元の世界に隔離されたといわれる悪魔の眷属への転化。
その膨大な力の膨張に里は強風が吹き荒れ、その邪悪な神気に当てられた逃げ惑う龍種が、魂を刈り取られて落下を始める。
スゥッ
リディの手が水平に振られた。その直後、世界が上下に分断された。
アルフォンスたちになんら影響はない、しかし木々がごっそりと切断され、轟音を立てながら倒れてゆく。その向こうでダグ爺たちの家が倒壊していた。
リディはその斬られた空間の中心に手を伸ばし、何かを引きずり出す仕草をした。それに合わせ、亀裂の向こうの空間から、死んだはずのアーシェ婆とダグ爺が身動きを封じられた状態で引き出されて地面に倒れた。
「貴方たちには一杯食わされました。ふふふ、でも悪戯ももうおしまいです。さすがに本体を潰されれば消滅するでしょう?」
ふたりが魔導生命体を操っていたと見抜いたリディは、その怒りを彼らの消滅で贖おうと、神気を指先に集中させる。だが、その絶望的な殺意の前に、里の最高戦力が終結して構えた。
アルフォンス、ソフィア、ティフォ、スタルジャ、エリン。
そのどれもが神格化を超え、天界に食い込むほどの力をもって、神を捨てたリディの前に立ちはだかる!
「─── 【黒雨】」
リディはその光景に即時方針を切り替え、里にいる生きとし生けるもの全ての命を刈り取りに出た。里の上空が一瞬で漆黒に染め上げられ、黒い雨が激しく降り注ぐ。
空からはその雨に触れた弱く小さな精霊たちが死滅して、仄かな光を曵きながら落ちてくる。しかし、抵抗力の強いアルフォンスたちは、即時に物理結界を展開してその雨を防いでいた。
「無駄なあがきは止めろリディ。ここでお前の意思を完全に砕く!」
アルフォンスが夜切に闘気を込め、青白い冷気を放つと、ソフィアたちもそれぞれの最高戦力をもって構えた。
「無駄なあがき……? ふふふ……キャハハハハハハハッ!!」
「何がおかしい」
空が闇に覆われ、黒い雨が里を打つ音がザアザアとさざめく。全てが黒に染め上げられた里に、ハンネスのケタケタ笑い続ける声と、リディの狂ったような嗤い声が響いた。
「─── 私たちの目的は達成です♪」
「「「……ッ!?」」」
老いさらばえ、生まれて初めての激痛を延々と繰り返され、正気を失い突っ伏していたはずのハンネスがいつの間にか立ち上がっていた。その回りには闇に紛れて、彼の生み出した長大な百足が束となってざわめいている。その一端はアーシェ婆たちの立つ後ろ、ダグ爺の家へと伸びていた。
「いかん! アルフォンス、その百足を断ち落とせッ!」
ダグ爺の声が雨の向こうで上がる。慌ててアルフォンスはハンネスから伸びる百足を切り落とそうとするも、百足は細く細かく別れて逃れた。
「……やっと戻って来たぁ~」
ハンネスの声に、全員が戦慄し振り向く。その手には、鈍い白銀の剣が握られていた。
「─── 【光あれ】ッ!」
アルフォンスの全力の神威が放たれるも、黒い百足たちがハンネスとリディを覆い、ザワザワと音を立てて消え去った。
そこにはもうふたりの姿はなく、聖剣の姿も残されてはいなかった。
ここまで読んだ
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